昭和56年8月15日 朝の御理解魔●② ⑦ ③ ⑦ ②
明渡 孝
御理解第57節『金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ』
金や物の力に頼るとかすがるとかということは、実に儚いものだと。ね。「神を杖につけば楽じゃ」と。ところが世の中には、結局ただ財産を杖に、健康がまあ取り得、健康でさえあればと、まあ人を頼り、または自分を過信する。ね。「ああ、もう私は自分の腕一本で」とこう言うけれども、その腕一本がどんなにたわいないものか。その場にその事に行き詰まった時にそれを分かるです。ね。
だから、もちろん健康がいらんというのでもなからなければ、物財産がいらんということでもない。けれども、神を頼りにしてのそれでなからなければならんということ。「神を杖につけば楽じゃ」と仰る。ね。その「楽じゃ」というところがね、もうたいへん実は素晴らしいことなんです。「神を杖につけば楽じゃ」と。ね。
ほんとに神を杖につけば楽じゃという心の状態が開けてきたら、それこそ物にも金にも、すべての点に不自由のないというか、幸福の条件がめいめい足ろうてくることであろう。まずは、私どもがそういうおかげを頂いて、ね、「もう神様のおかげを頂かなければ立ち行かん」という実験実証を身を持ってさせてもろうて、そして、いうなら「神も助かり、氏子も立ち行く」と仰る。
私どもが、そのような信心によって立ち行くおかげを頂いたら、神も助かるという働きを起こしていく運動に参画しなければいけない。ね。「合楽示現活動に参画する」ということは、そういうことだと思う。ね。その根本には、「神を杖につけば楽じゃ」といったような信心が頂けて、自分の立ち行き、自分の助かりを頂いて、そして、神も助かりと仰る、神様を助けていく働き。ね。
なら、どういうようなことが神様が助かって下さることかと。
まあ、今日は、何と申しますかね、みなさん大らかな気持ちで頂いて下さい。これはみなさんが信じようと信じまいとどうでもいいですけれども、私は信じておる。私大坪総一郎は信じておる。だから、みなさんはその話を聞いて、まあどう感じられるかということなんです。ね。
教祖様が、世界を金光大神の信心によって包み回す、と仰っておられる。合楽でも、和賀心時代を世界に広げていきたい。それこそ世界万国津々浦々に、ね、合楽理念に基づく人の助かり、まあいうならば、和賀心時代を、( ? )を世界に、放生会の精神を人間総氏子に分からせていきたい。ためには、その手がかりとなる、いうなら足がかりにもなるようなおかげを頂かして下されい、というお願いを、毎日繰り返しさして頂くわけですけれども。
今日、そういう御祈念をさして頂いておる時頂きますのにね、●②「亡魂との戦い」ということを頂くんです。幽霊ですね。亡魂。どういう亡魂かというと、過去の宗教のすべてなんです。ね。だからここへんは、みなさんが大らかな心で聞いて頂きたいと思うとはね、過去の宗教、なら、もう我がものだからと、親先生がと思わずに、私はそれを信じておるという話をしておるわけですけれどもね。●②
●⑦過去数千年にわたっていろいろな宗教があった。また、今日それも世界に(だいをなしておる?)宗教がいくらもある。けれどもそれは、残骸であり、亡魂なのだと。むしろ災いこそあれ、世の氏子の助かりのことのために貢献すること。ほんとの助かりのための貢献することができない。死んだ宗教なんだから。
だから、その亡魂との戦いが、まずはあるぞということを今日は頂いたんです。ね。金光教の信心の中身が、どんなに素晴らしいの、ありがたいのと言うてもです、やはりそこに障害になるもの。世界万国津々浦々に広げていこう、世界を包み回すというほどしの内容を持っておるお道の信心だというてもです、そこにはやはり障害がある。亡魂との戦いである。●⑦
昨夜、九時何分ぐらいでしたかね。お芝居があるというので、家内がそこにこう、熱燗抜きゃここでお芝居が見られるというので、時間待っておりましたら、お芝居が歌舞伎芝居です。(「なるがん」?)というお芝居です。歌舞伎十八番。海老蔵、玉三郎、いわゆる海老玉のお芝居なんです。そら素晴らしいお芝居でしたが。ね。
あれは、(なる神上人?)というのが、国の、いわゆる政に反対を感じたんですね。それでその、自分の霊徳の術によって、雨を降らす神様を滝壷の中に封じ込んでしまう。注連縄を張って。
過去の宗教にはそんなのがありますね。例えば、封じ込むといったようなのがね。悪霊、悪霊なんかを封じ込むとかね。そういう観念が、私どもの信心の中にあります。ですから、雨が降らないのです。ね。それで、それを色仕掛けでその、注連を切らせよう、いわゆる封じ込んだその竜神をね、出して、雨を、雨乞いに、いうならお芝居なんです。
もう何というでしょうか、エロチズム(エロティック)とでも申しましょうか。けれども、今の映画なんかのようなえげつないことはない。うん。けれどもその、まあエロチ・・・のお芝居です。
それは素晴らしい方でね、いろいろな場面場合を決めていくわけですけれども。結局その、玉三郎演ずるところの(くもまたえの姫?)ですかね、の色気に迷うて破壊をするということ。ね。途端にもう、いっぺんに( ? )それからその、まあ悪鬼と化していくという、化して地獄に落ちていくというお芝居なんです。それこそ(なるがみ上人?)と言えば、生き仏様のように言われた方が、女の色香に迷うて、そういうことになった、という筋のお芝居です。ね。
●③私はね、なぜ金光教が、なぜ合楽で説いておる合楽理念が素晴らしいかというと、いわゆる、「人間が人間らしゅう生きる手立て」ということです。たとえていうならその、なるがみのお芝居に例をとりましてもです、「男女の中にも神あり」と頂くのがお道の信心。「清きところも汚きところも、隔てなく神様はお守りある」という御教えをです、私どもの様々な場合の中にもです、ね、そこに神様を現していけるというのです。ね。
それを私どもも知らなかったけれども、ね、まあその昨日のなるがみの台詞の中から言うと、「破壊」という言葉が出てくるんですけれども。私どもは、それを例えば、「私のような悪かことしたもんな、助かりきらん」というように観念するのではなくてです、観念したら、なるほどそこはあるのは地獄道だけしかないという。ね。そこんところを、例えば合掌して、すべての事に「御」の字を付けて頂くという頂き方を、いわゆる詳らか(つまびらか)に説いてあるのが合楽理念ですよね。●③
いわゆるおかげの世界がずっと広がってきたわけです。ですからね、●⑦例えば人間がです、生身を持っておるものが幸せになれれるという、なれるかのように教えを頂くと、まあよく似た教えがたくさんありますよ、人間が助かってくための。キリスト教にだって仏教にだって、あらゆる宗教にその教えがありますから。教えは素晴らしいけれども、その教えを徹底して行じていこうとすると、五戒にぶつかり十戒にぶつかるわけです。ね。
そして、ならここまで辛抱し抜いたのに、破壊ということで、またおかげを落とさんならん、といったような繰り返しを数千年やってきた宗教。そういう亡魂ですからね、やはり怖いです。●⑦ね。
ほんとにこれはまあ、合楽が誕生したということは、そういう、いうならば、本当の真実を目指さしてもろうて、しかもそれを、世界万国津々浦々にも広げていこうという、ためには、今日の御理解じゃないけど、まずは、自分自身が助からなければならない。いうならば、本当にどのような場合であっても「神を杖につけば」と仰る、神様を杖につけれる信心をまず頂かなきゃならない。
まず、いうならば、まあ亡魂を払わなければね、金で幸せになる、物で幸せになる、健康でありさえすれば幸せ。そういう観念をまずかなぐり捨てて、神様のおかげを頂かなければ、人間の幸せというものはあり得ないんだ、というところにです、神を杖につくという信心。そこに自らの助かりがある。その助かりを広げていこうというのである。ね。
あんまり大きな事ですから、まあ大らかな気持ちで。けれども、「親先生は、あれを信じてござる」と思うて頂きたいと思うんです。ね。神を助けるということ。
●②これもまあ、この夢を、今朝から頂くお夢でしたけれども、まあ難しいけど。ちょうどあの大久保彦左衛門が、徳川家康が、何とかの合戦の時に、もういよいよ敵にやられるところを助けた、ということがあるでしょう。ね。
こう藪の中に隠れておってから、敵がそこに槍をブスッと突く。その上に覆い被さっておった大久保彦左衛門が、自分が突かれてその、主人家康を助けたという。ね。主人を助けた大久保彦左衛門は、ならどういうことになったかというと、もう何ですかね。まあ天下何とか御免のね、その許しを得たというように、ような、そういう筋をです、私が徳川家康になったり、大久保彦左衛門になったり、いわば、そういう場面をずっとこう頂くんです。
だから、私が合楽理念を説いて、その合楽理念を徹底させる人間氏子がそこにできてくるということは、もうそのまま神を助けるということなんです。ただおかげを頂いた、もちろん、神様の願いは、氏子の助かりは自分の助かり、とこう願われるけれども、本当の、いうならば助かりは、ね。合楽で言われる十全の信心ということが言えるね。「和道十全」と合楽では言っております。合楽理念では。金光教の信心は、和道十全なんだ。●②ね。
これも、二・三日前、この村内の方がお願いにきました。結婚のことを、もう何ヶ月も前にお願いにきとった。息子の結婚が、なかなか崩れ崩れしてできん。ところが、素晴らしい、本人達も気に入って、もうその周囲も「はあ、こりゃ良か結婚」と言うて喜んでおられるところへその、嫁さん、女子のお母さんになる人がある所にお参りをした。そしてお尋ねをした。したら、「この結婚はいかん。相性が悪い」と仰った。もういっぺんで崩れてしもうた。
それでそのことを、金光様にお参りをすれば、そういうことは言われんから、というて、まあお願いに来たわけです。そういうのは私どもは、まあ宗教とも思いませんけれども。仏様であれば、神様でさえあればというて、もうそれこそ仏様神様の風上にも置けないようなことを言うて、人心を惑わすような仏様神様ですらあるということですよね。
ならんところでもなるように、ご都合お繰り合わせが頂けていけれるというのが、取次の道、金光大神の教えなんです。しかも周囲が全部祝福して、喜んでおる矢先に、「相性がいけん」というて、もういっぺんに崩れてしまう。いや、崩れてしまうじゃない、崩してしまうような仏様神様があるとしたら、これはほんとに仏様神様の風上には置けんとは思うけれども、そういう信心が、やはり横行しておるということです。ね。
それこそ、偉大なるというか、亡魂が横行して人間の幸せを阻んでおるように、私どもは、そういうようなね、いうならば取り組み方も修行もしていかなんためには、まずは、自分自身が中途半端なものではなくてです、ほんとに助からなければできないということ。の確信が頂けない。それはどういうことかというと、物や金やらというのでは、ね、金をつけば曲がるぞ、ね。木の杖では折れるぞと。ね。というふうに教えておられる、物やら金やらに頼るということではなくて、頼れるのは神様だけだと。神の杖をついて、そこから頂けれる、物であれ金であるというおかげを頂いて始めて私どもの助かりがある。
そういう助かりを、まずは私どもが頂いて、今申しますような、ね、たくさんな亡魂がウロウロしておりますから、人間の幸せを阻むようなものがいっぱいあるのです。ですから、そういうものを私どもは、との戦いも覚悟しなければならない。ね。
だから、ただ世界をお道の信心で包み回すというても、それこそ願いと同時に、一歩一歩それに向かって進んでいかなければならんということは、ほんとに一人一人がほんとうの助かりを頂いていかなければならん、ということ。一人一人が、「神を杖につけば楽じゃ」という心。「楽」ということ。ね。これはたいへん意味が深いことなんですよ。ね。
神を杖につけば楽。ほんとに楽であると感じれれる信心。「神を杖につけば楽じゃ」という、その「楽」のおかげを受けて、いわばそういう神を助ける働き。そこからは。ね。それこそ大久保彦左衛門じゃないけれども、神を助ける働き。ね。そこから、まあ徳川ですかね、徳の川という大きい流れが頂けれるような時代。ね。
それはね、まあそれこそたいへんなことでしょうけれども、ならこの祈り願いを捨ててはならない。そして、それに向かって一歩一歩近付いていかなければならない。そして神様をお助け申し上げれるような信心も身に付けてかなければならない。それには、まず自分が助からなければならない。自分が助かるということは、「神を杖につけば楽じゃ」という信心を把握できた、できるということからだ、と私は思うですね。どうぞ。